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店主のブログ

ブログが新しく成りました。
旧ブログは此方です


但馬砥石を訪ねて…


平成24年3月、某卸元の倉庫の片隅から先代の直筆で「本但馬砥」との記載の入った砥石を
見付け手に入れました。



始めは昭和45年に発行された日本工業新聞で砥石の産地で現兵庫県豊岡市日高町水上で産出された
水上砥の記載が有り先代も水上砥と書かれたので此方も水上砥と信じて疑わない物が有りました。
暫く時間が経ち平成25年1月に卸元から本但馬砥に良く似た石が出て来たので産地を調べて欲しいと
依頼が有りました。



早速、調べる事にしましたが何処から手を付けて良いのか判らず手始めに平成25年3月兵庫県豊岡市
日高町に有る豊岡市日高支所に電話を掛けて水上砥を知っている方を訪ねました。
所が水上砥に関して知っている方が居ないとの事で暗礁に乗り上げ行き詰る事に成り悪戯に時間が

経過しましたが平成25年6月に豊岡市教育委員会から連絡が有り但馬で取れた砥石を知っている言う
豊岡市教育委員会に所属し山陰海岸や但馬地域の地質を調べているにM氏を紹介して貰う運びに
成りました。

連絡後、豊岡市日高町で会う約束をし日高町に飛びました。其の方が仰るには日高町の水上と言う
地名は有るが其処では砥石が取れた話は聞かないのと戦中に線路に轢く石を水上で探した様ですが

安山岩で線路に轢く石には適さ無かった様です。詳しい事は判らないので水上に知り合いが
いるので聞いて見るのが早いとの事で早速、現地を訪ねる事にしました。



現地で当時の区長さんから話を聞きましたが水上で石を採掘していた話は全く聞かないとの
事で水上に砥石が出たとの事は、確証が有りませんでした。此処から憶測に成りますが確かに
此の付近に赤崎周辺や日高町水口や竹野町水石で砥石が採れたとの事で其処の地名と水上が
混同してしまい水上砥として当時の新聞に載ったのではないか?又もう一つの可能性として
水上で砥石の卸業者がいて此の付近で採掘された砥石を水上砥として卸していたのでは
無いかと意見が出ましたが確証が有りません。




其処で水上砥と言われる上記の石を見せた所、新温泉町諸寄で採掘された石では無いか?
とM氏が言われ新温泉町浜坂に有る山陰海岸ジオパーク館に諸寄砥の現物が有るので行って
見る事に成りました。因みに上記の写真の石は両方共、同じ石で有る事が確認されました。
途中、砥石が採掘された日高町水口と香美町村岡を通るので序に寄って行こうと話が纏まり
日高町水上から浜坂迄、2時間強の道中が始まりました。

因みに上記の写真右側の石の裏側の写真です。




綺麗な寅模様が入っています。此の模様は、地表近くの石が雨風に晒され石の中の鉄分が
酸化をして此の様に模様が付いたとの事…色の強弱は鉄分等の濃度に寄り色の濃淡が出る
ので同じ産地の石でも此の様に全く違う石が出るとの事です。
蛇足に成りますが寅砥と言えば沼田の寅砥が有名ですが此方は粘板岩系統の石で此の手の
石とは全く違います。此れは岐阜の卸元に聞いた話ですが上州沼田の寅砥と美濃白鳥砥は
同じ系列の石で鉱脈が西と東で出て繋がっていると聞きましたが確証が無いので、
はっきりとは言えません。上州本沼田寅砥と美濃白鳥砥は確かに似ていますが自分が知って
いる範囲で奥州艶砥と飛騨の小鳥砥・播州佐用砥・予州の本伊予砥等も良く似ています。



日高町水上から30分で水口に到着です。此処で地元の人から話を聞きました。確かに採掘はしていたと 話は聞いた事が有るそうですが地元の方でも現物は見た事が無いそうです。採掘場所は恐らく下記の  写真の低い山を越えた山奥との事… 



此の先は道が続いていますが林道は私有地に成るので此の先は進めません。
先を急ぐ事にして浜坂に向かう事にしました。途中、村岡で砥石がでたそうで途中、村岡に
寄る事にしました。


村岡に到着し地元の方に聞きましたが硯石の様な石は採掘された話は聞いた事が無いそうです。



上記の写真の石は砥石に成るのか判りません。此の手の石は、村岡川の河原に転がっているとの事。
硯石の様な感じの石です。砥石としては堅過ぎますが油砥石としては使えそうです。




確かに上記の写真から砥石に成るのか判りませんが粘板岩の石が転がっているのが判ります。
河原に降りて石を確認したかったのですが但馬地域は、真ダニ噛まれて感染する致死率の高い

ウイルス感染症「重症熱性血小板減少症」に感染する可能性が有り此の時期は特に真ダニの活動が
活発な時期なので降りる事は断念しました。後日、村岡砥らしき石を但馬地域で石を研究している
方から入手する事が出来ましたので後日、紹介を致します。

浜坂町営山陰ジオパーク館に到着です。




現物の諸寄砥と対面です…



現物の諸寄砥と此方が持参した新但馬砥(水上砥)を比較し豊岡市の教育委員会のM氏に確認を取って

頂いた所、持参した新但馬砥(水上砥)が此処で展示されている石が同じ石質で諸寄砥と言う事が
確認出来ました。結果、水上砥は否定されました。諸寄砥の歴史は徳川政権中期に採掘され当時、
西回り航路で大坂に運ばれ船の安定を図るバラストとして船底に積まれ海産物と共に運ばれたそうです。



昭和の初めに諸寄砥は崩落等の事故が発生した為、再開の目途が立たず閉山しましたが戦後、

砥石の需要が高まると諸寄地区で新たな鉱脈が見つかり新たな石質の砥石が採掘をされました。
此れが現在、市場で僅かに残っている但馬砥です。此の但馬砥も昭和50年代中頃には閉山された
そうです。



噂では此処数年、採掘が再開されたとのネット上での話ですが地元の職員ですら其の様な話は聞いた
事が無いそうで後日、山の所有者にも確認が取れましたが其の様な事実は無いとの事でした。
只、盗掘の可能性は有るとの事でしたが冬は雪深く他の季節は毒蛇やダニ・蛭等が多くまた猪や熊が

出没するので採掘跡には地元の人でも近寄る事は無いそうです。其の様な危険を冒して盗掘する
人の気が知れないとの事でした…

此処を去る時、突然押し掛けた非礼として右端三点を寄贈して此処を去りました。
右端が現但馬砥で二番目が諸寄砥の原石・三番目が諸寄砥の角物です。
一度、機会が有れば浜坂町山陰ジオパーク館に御寄りの際、諸寄砥を手に取って確認して下さい…

下記の写真は但馬砥の採掘現場跡付近です。



下記の写真は諸寄砥採掘現場跡付近です…



当時、写真を撮った日は台風が接近していた事も有り山の所有者と合う事は後日と言う事で御会い
しませんでした。公道から写真を撮り現場の特定は写真から出来ない様に加工し掲載しています。
後日、地元の方から諸寄砥を送られて来ました。近日中に新たな諸寄砥を掲載をしたいと思います。

日を改めて諸寄砥を採掘していた御子孫(御孫さん)80前後に成られていた方と御合いしました。
祖父から聴いた言葉を思い出しながら伝え聞いた事を話して頂き、大変勉強に成りました。
兵庫県には、但馬砥以外にも何ヶ所か砥石が採掘されていた様です。其の殆どが地産地消で全国に
流通する事が無く殆ど無名で消えた砥石も有ります。時間が出来れば其の砥石の足跡を訪ねて見たい

と思います。持参した本但馬砥を見せた所、諸寄砥で間違い無いと御墨付きを得ています。
以前、豊岡で山陰方面や但馬地区の地質を研究している方からも此方が所有している砥石は諸寄砥で
間違い無いと確証を得ていますので確証から確信に変わっているので略、間違い有りません。

此の度は、豊岡市教育委員会のM氏及び浜坂町営山陰ジオパーク館職員一同様・協力して頂いた地元
の方々に厚く御礼を申し上げます。本来ならば直接出向き、御礼の言葉を一言でも述べるのが筋では

御座いますが無礼は重々承知の上、此の場を御借りして御礼の挨拶に替えさせて頂きます。
有難う御座いました。


平成26年12月1日

御吉兆 主 高 裕一郎




平成27年3月3日更新…